2013年1月11日金曜日

空と海と大地と悲惨な戦争


1941年12月8日の真珠湾攻撃から70数余年。
作戦の計画が極秘に話し合われたとされる、旧海軍鹿屋基地(現海上自衛隊鹿屋航空基地)の
庁舎が老朽化で取り壊されることに。



2階の右側に当時の参謀長公室があったとされる。




この部屋で秘密裏に真珠湾攻撃の作戦計画が極秘に話し合われたとされ、
鹿屋会談と呼ばれる大西少将と源田参謀の極秘会談が行われたとされる。

真珠湾航空奇襲の訓練は鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に、
鴨池、鹿屋、笠之原、出水、串木野、加世田、知覧、指宿、垂水、郡山、
七尾島、志布志湾の各地で行われた。

 地元からは「歴史を検証するために残すべきだ」との声も出ている。






資料の一部は、
海上自衛隊鹿屋航空基地入り口にある鹿屋航空基地史料館に展示されています。







旧ブログ記事より「鹿屋航空基地資料館」の案内をしたいと思います。

先週久しぶりに
鹿屋航空基地資料館」に行ってきました。午前中にちょっと時間ができたので・・・


実際には資料館には入らなかったのですが、
時間が無かったのと、入ると涙が溢れてきて止まらなくなるからです。

知覧の特攻資料館もそうですが、戦争の悲惨な真実が赤裸々に綴られており、
特に突撃前に書かれた手紙は途中で涙で読めなくなります。
大隅半島だけでなく、鹿児島県内いたるところに特攻隊の航空基地跡があります。

そんな訳で、外に展示してある飛行機を見てまわりました。







第二次世界大戦における沖縄の戦闘は、戦史にも類例がないほど熾烈なものでした。
ときに戦局は、ようやく日本に不利となり、ここに退勢挽回の秘策を試みるに至った。
即ち敵国海空軍兵力の全滅を期して企てた“特攻攻撃”である。

太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月11日、
第 762 航空隊の陸上爆撃機「銀河」24 機が鹿屋を飛び立ちました。
鹿児島・鴨池基地を出撃した誘導役の二式飛行艇と佐多岬上空で会合した後、
彼等が目指したのは、西カロリン諸島のウルシー環礁。
ここを錨地とする米空母機動部隊を体当たりにより殲滅する任務が課せられていました。
鹿屋からウルシーまで1,500海里(約 2,900km)以上、帰投することはもはや物理的に不可能な、
前代未聞の長距離片道攻撃です。

途中、機材の不調により脱落する機もあり、最終的にウルシーへ到達した銀河は 16 機。
出撃時刻を1時間遅らされたことと、重装備かつエンジン不調により、
速度の出ない二式大艇に頭を抑えられ本来の俊足を活かし切れなかった銀河隊は、
敵艦影の判別の極めて困難な日没後の突入を余儀なくされ、彼等の戦果は、
1機が空母「ランドルフ」の飛行甲板後部に激突し火災を発生させるにとどまりました。
突入を断念した4機がヤップ島に不時着したほかは12機もの銀河が未帰還となりました。
戦果に対してあまりにも大きな犠牲でした。


これが、
鹿屋から出撃した最初の特攻隊、神風特別攻撃隊菊水部隊梓隊、通称「梓特別攻撃隊」です。
以降終戦まで、薩摩半島の陸軍知覧飛行場とともに本土最南端の特攻基地として、
1,000 名近い若者達が沖縄はじめ南方へ出撃し、帰らなかったのです。



第二五四飛行隊は航空母艦の攻撃部隊で、ハワイ海戦以来の伝統に輝く精鋭部隊でした。
海軍 天山艦攻隊です。












紫電改のエンジン







戦後の航空機











P2V-7








この機種のあたりから覚えています。
高隈山に墜落したのもP2Vでした。
その後P2Jになり、現在はP3Cです。



海上自衛隊鹿屋航空基地の前に、わが母校の第一鹿屋中学校があるのですが、
親が自衛隊員の同級生も多く、他の中学と違って他県出身の生徒も多く、
当然、転入生・転校生も多かったです。
当時としてはナウい(死語ですが)ヤングが多かった中学です。
美術の時間に良くこの公園に、みんなでスケッチの授業で来た覚えがあります。




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